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みんなちがって、みんないい? |
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2007/06/18 |
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「パパ!起きてよ」
俺の胸に骨ばった重みがのしかかる。
「うぐっ!苦しいよ」
そう言いながら、俺は目を開けた。
誠太はごつごつした手足をばたつかせて、俺の腹の上で暴れている。
「誠太…何時だ?」
「もう10時だよ!」
そう応じながら、彼はなおも俺の胸にパンチを叩き込む。6歳ともなればそこそこ腕力もある。無防備に寝たままで堪えるのは、ちょっと厳しい。
「ちょっちょっとタンマ!わっ…分かった分かった!起きるから…」
誠太は今朝観た戦隊ヒーロー物の特撮のごっこ遊びに、どうしても俺を誘い込みたいらしい。
「ぐぉぉっ!こうなれば…巨大化しておまえと戦うしかないようだなぁ!」
起き上がりざまに掛け布団ごと誠太をすっ飛ばしてやる。ベッドから落とされた彼は「俺もスーパーロボに合体だぁ!」なんて言っている。
強制的に叩き起こされた俺だったけれど、さほどの不快感はなかった。ここのところ仕事上のあれこれに忙殺された日々をおくっていたから、熟睡と言っても良いくらいにぐっすり眠って、息子と戯れながら目覚めると言うのは、決して悪いことではないように思える。毎日毎日ベッドから自分の体を引き剥がすようにして、出勤していたここ数日を思えば、久しぶりの休日である今日は、俺に幸せを満喫させるに十分だと思えた。
ブラインドの紐を引っ張ると、細く開いた羽の隙間から日差しが室内を満たす。
(そう言えば誠太とももう長いこと遊んでいない、飯を食ったら公園でキャッチボールでもしてやるか!)
そう思いながらリビングに向かう。
テーブルの上には朝食がセットされていた。
「ママは?」
「もうとっくに出掛けちゃった。友達に会いに行くって出掛けたよ」
そう言えば、「高校の頃の友達に会いに行くから留守番よろしくね」って言われていたことを思い出す。
「そっか。っじゃ、今日はパパと留守番しなきゃなぁ」
誠太は朝食を済ませていた。空になった彼の皿やマグカップを食洗機に突っ込むついでに、鍋に入っているコーンスープを暖め直す。
「おれ…いぬ…、おまえ…にんげん…」
朝飯とも昼飯とも言えそうな食事をしている俺の隣で、誠太は絵本を読んでいる。読むと言うにはまだまだたどたどしい風だけれど、つっかえつっかえ文字を辿る様は微笑ましい。
「誠太さん、面白そうな絵本だね」
誠太は、ひらがなが読めるようになったことが嬉しいらしく、最近では目に付くひらがなを片っ端から声に出しては読んでいる。例えば、寿司屋に行けば「パパ、「がり」って何?」とか、「「たこわさ」って書いてあるよ。これ何?」と言った具合に…。
子供の好奇心は頼もしい、俺はそう思う。子供の頃に芽生えた好奇心の萌芽は、やがて探求心へと繋がる。それを邪魔しないスタンスで、彼らの成長をサポートするのが、大人の、親のあるべき態度のように思う。
俺は幼い頃からあれこれと考え事をする癖があった。
水槽の中を泳ぎ回る金魚と、窓際に置かれたまま身じろぎもしない観葉植物、彼らに等しく与えられている「命」と言うものが不思議に思えた。「動いている動物と、動かない植物。泳いでる金魚の命は分かるけど、あの鉢植えの命って?」、そんな風な小さな疑問は、やがて「命って何なんだろう?」、「生きている!ってどう言うことだろう?」と言う風な疑問へと形作られていった。
同世代の子供たちが「○○レンジャー」の類の遊びに夢中になっている時に、水槽の金魚と鉢植えの観葉植物を見比べて命について空想していたのだから、一風変わった子供であったことは間違いない。
そんな俺のことを「普通の子供と違うから…」と言って奇異な目で見るでもなく、何ら咎めるでもなく、両親は寛容に接してくれた。そんな両親の態度が今の俺を作り上げる第一の要因と言える。
それに加えて、幼い頃から今に至るまで多くの親類や友人、知人の死を目の当たりにしたと言う経験が、「命の意味」、「生きることの意味」を探求する心に拍車を掛けた。
ことあるごとに、「命とは?」「生きる意味とは?」そう言った類の自問自答を繰り返してきた俺が、最終的に村上幸之助の倫理学研究室に身を置くことになったのは、偶然ではないような気もする。
テーブルの上のコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
誠太は退屈そうな表情で俺の顔を覗き込んでいる。
「パパ、何かして遊ぼうよ!」
「おっ、悪い悪い!」
俺が子供の頃の感傷に浸っている間に誠太は絵本を読み終えてしまっていたらしく、最後のページが開かれたままになっている。
「おれとおまえ、ぜんぜんちがう。だけど、すき。だから、ともだち」
犬の頭に手を置いている男の子の絵にそんな言葉が添えられている。その一文にふと惹かれた。
「おれとおまえ、ぜんぜんちがう。だけど、すき。だから、ともだち」
この言葉に何故惹かれるのだろう。その答えを記憶の隅々から手繰り寄せるには少しの時間が必要に思えた。
誠太の好みそうなアニメのDVDを無造作にラックから掴み出す。これで暫くは過去の記憶と戯れる時間が稼げそうだ。
盛岡真喜子と出会ったのは、俺が大学生だった頃だ。時々気まぐれに通っていたプールバー、「隣良いですか?」、彼女はそんな風に声を掛けてきた。別に断る理由もなかったから、俺は「どうぞ」と応じた。
流れるボサノバ、球がぶつかり合ってポケットに入る音、それらが程良くミックスされて、小気味良い和音を響かせている。店内の賑わいが小気味良さを醸し出せば醸し出すほどに、何も言わずに隣に座る真喜子の物憂げな表情が際立つ。まるで彼女の居る場所だけが周囲の賑わいからざっくりと切り取られたみたいだ。耳を澄ませば、絵画の一部分を切り取る鋭利な刃物の音さえ聞こえてきそうな気がして、俺は彼女から目を反らした。
「裏切られるって辛いことですよね?」
近くのテーブルでカードマジックをしているバーテンの手元を注視していた俺に、唐突にそんなせりふが聞こえた。TVのドラマかアニメか何かから抜き出してきたような空々しい響きの主は、隣に居る真喜子だった。
「私ね、親友に…、夫を奪われたの…」
初対面の、しかも人生経験の欠片も手にしていないような若造に話す話題にしては常軌を逸する重たい話しだ。「ドン引き」と言う表現がぴったり来るような状況であったにも関わらず、俺は彼女の側から離れることができなかった。
「ぴぴぴぴっ!ぴぴぴぴっ!」心の隅っこは「この状況は明らかにヤバイ!」と鋭く尖った警告音を発しているのに、その場から立ち去ることも、彼女から目を反らすことも、話題を変えることすらできなかった。
「耳を貸してくれなきゃ、刺すわよ!」的な危険な光が真喜子の瞳に宿っていたからだ。
「危険な物や状況は避ければ良い」ってのはもっともらしい答えだし、万人がそれを選ぶだろうことは間違いないのだけれど、危険な物への好奇心とか危うい状況下に自分の身を晒すことを、当時の俺は欲していたのかもしれない。危険な状況に晒されたって、俺ならどうにか切り抜けられる、何の根拠もなくそんな風な気持ちをもっていたと言い換えた方が的確だろう。
「わっ私は夫のことを愛していたの。親友のことだって、信頼してたの!本当に…」
時に泣きながら、時に怒りで頬を紅潮させながら、彼女はおよそ思い付くかぎりの恨み言を紬続ける。
俺はあまりの現実感のなさに呆然としながら、いつ終わるとも知れない肉声の固まりを耳に流し込んでいた。「勘弁してくれよっ!」と思う反面、カウンセラーとか精神科医の疑似体験を楽しんでいるようなところもあった。
俺が学んでいる倫理学が「人がより良く生きることを探求する学問」だとするなら、ここに居る、目の前に居る悲しみと愚痴や恨み言にまみれたこの女を、どろどろした闇から引きずり出してやれるのではないか、そんな風にさえ思っていた。
「若さ」と言う言葉を俺なりに説明して哲学めいた書物に載っけることができるのだとしたら、「若さとは、勇気と無謀が背中合わせで同居していて、自信と傲慢がごちゃ混ぜに飽和している時代」と書くだろう。無論、無謀だとか傲慢とは無縁で、緩やかで柔らかな時間の流れに漂っている若さと言う時代があってもかまわないけれど、少なくとも俺のあの頃を「若さ」と言う言葉で片付けるには、無謀や傲慢と言ったエッセンスが必要だと思う。
皮肉にも、俺の手元にあった倫理学的理論武装は、真喜子の心を易々と攻撃できたし、そのことが俺の傲慢を成長させ、俺を良い気にさせた。
大皿が割れるけたたましい音が空気を震わせる。
「ひゃっ!」
真喜子は驚いてびくりとした。
音の方向に視線を移すと、客がちょっとした口論をしているらしいことが分かった。酒の上での諍いならちょくちょくあることだし、注目するほどの大乱闘にも発展しなかったのだけれど、大皿の割れる音を合図に、俺と真喜子は、傲慢と恨み言が繰り返される異空間から引き戻された。
「ビリヤードやったことあります?」
俺の問に真喜子は首を横に動かした。
「やってみますか?面白いっすよ!」
俺は真喜子に、手球をどのボールでも良いから当ててポケットに落とせばとにかく1点、と言う風な初歩的なゲームを教えた。
俺が盛岡真喜子の名前を知ったのはその時だった。それまでは一方的に彼女が俺に対して、自分の身の上話をはき出してばかりいたものだから、俺が学生で倫理学に興味があること、酒や煙草をやる悪友が居ることなんかを話したのもその時だ。
「っじゃ!」
ひとしきりゲームをやり尽くした頃、俺はそう言って店をでようとした。
「もう帰るの?」
彼女は寂しげな視線を俺に向けた。
「1人にしないで!」、そう言われたような気がして、俺は彼女の手を取ってしまっていた。
トーストの焼ける香ばしい香りがする。目を覚ますと隣に真喜子は居なかった。キッチンと呼ぶにはあまりにも粗末で小さな流し台に立っている彼女を背中で感じることができる。
ここが古びたラブホテルだったら、目覚めた場所が湿ったシーツの上だったなら、一夜の出来事だとか、ちょっとしたアクシデントだとか言って、真喜子との関係をこれっきりにできただろう。
それがどうだ?ここは古びたラブホテルなんかじゃない。目覚めた場所だって、畳の上にしかれた布団の中だ。
そこは、夫と別れた真喜子が引っ越して来たばかりの古びたアパートだった。部屋の隅っこに積まれたままの、まだ開けられていない箱たち、皿の上のトーストと目玉焼き、何もかもが生々しい。
その生々しい空気の中に何の矛盾もなさげに俺が溶け込む。その様は、引っ越ししたてのぎこちない新婚夫婦に似ていた。
もしも、外側から俺たちを見る存在があったとすれば、間違いなく「新婚さんヒューヒュー!」なんてひやかしたに違いない。
出されたトーストと目玉焼きを頬張る。
真喜子はそんな俺の向かい側で、幸せそうに微笑んでいる。
そんな状況に違和感を感じながらも、昨夜真喜子を抱いたことの重みをトーストたちと一緒に飲み下す俺が居た。
それから、俺と真喜子はずるずると同棲を始め、俺が大学を卒業するのを待たずに、彼女は俺と同じ姓を名乗るようになっていた。
「成り行き」と言う言葉が、自分の選んだ人生だとか、しでかしてしまった悪行なんかの免罪符になるのなら、そうすることが許されるのなら、真喜子と始めた飯事みたいな生活の中で、「成り行き」って言葉を俺は何回振り翳しただろう。自身の傲慢を前面に押し出して成り行きで場当たり的に始めた生活に後ろめたさを感じていたから、俺は、決して「成り行き」って言葉を使わなかった。「これは成り行きなんかじゃない!成り行きに見えるかも知れないけど、これだって愛の形だ!」自分にそう言い聞かせていた。
幼い頃から、俺が一風変わった思考をしようが、突拍子もない冒険をしでかそうが、寛容に受け止めてくれていた両親ですら、俺と真喜子の生活を祝福してはくれなかった。危うげな光をちらつかせる俺たちの生活を心配する友人も居た。「つまりは、おまえさんは1度寝ちまったことを負い目に感じているわけだ…」なんて露骨に言う奴も居た。それらが感じられる度に、俺は心の中で繰り返した。「これは成り行きなんかじゃない!」と。
俺が大学院に進んで暫くした頃、龍太が生まれた。7月4日が彼の誕生日だ。龍太はちょっとした風邪をひいたりしたけれど、元気に育ってくれた。元気な彼と戯れることは、俺にとって日だまりのように思えた。日だまりの反対側に闇があるように、隆太が寝た後、俺と真喜子は言い争いを繰り返した。
真喜子は、ストレスがあると言ってはその解消手段として浪費を選び、不満があると言っては、悪態をついた。勿論彼女がそうするからには、それなりの理由だとか原因があって、その中に俺と言う存在が大きな位置を占めていたことは否めないけれど、彼女がはき出す浪費や悪態の全てを受け入れられるほどに俺は大人ではなかったし、広い心を持ち合わせてもいなかった。「どうせ私なんて生きてても仕方ない!死ぬ!」彼女は感情が高ぶるとヒステリックに金切り声を上げて、キッチンから包丁を持ち出したことだってあった。寂しさからかまって欲しかったのかも知れない、何かの辛さを表現したかっただけかも知れない、だけどその手段として「死ぬ!」って言葉を使う真喜子が赦せなかった。生きていたい!といくら望んでも終えなければならなかった、沢山の命の光を見送ってきた俺には、どうにも我慢ならなかった。
俺は真喜子に手を上げた。「手を上げた」なんてきれいなもんじゃない!そう、ぶん殴ったって言った方がぴったり来る。
昼間は研究だとか、論文執筆を機械的にこなさなくてはならなかったし、夜になれば真喜子との言い争いにエネルギーを放出しなければならなかった。そんな日々が積み重なるうちに、「あっ笑わなきゃ!」って意識しなければ笑うこともできなくなってしまっていた。
成り行きみたいな始まりで紡がれた生活の中にも、勿論愛しさはあった。よちよち歩けるようになった龍太の無邪気さは愛しく思った。真喜子との間にも楽しい記憶だってあった。だから藻掻いた。俺は俺なりに、真喜子は真喜子なりに…。
そして、俺たちの生活は崩壊した。食前酒、オードブル、スープ、魚料理、肉料理、サラダ、チーズ、ケーキ、フルーツ、コーヒー…、フルコース料理に決まり切った順序があるのと同じ風に、俺は離婚と言う何とも後味の悪い苦みを含んだデザートにありついた。「前菜の「出会い」でございます」、「本日のスープ「成り行きの一夜」でございます」、「お魚料理「惰性の結婚」でございます」、「お肉料理「おめでた」でございます」、「「泥沼のもめ事」サラダでございます」、「本日のデザート「離婚」でございます」、次々と料理が運ばれて来る様を想像して、俺は自分を嘲笑した。
どんなに努力したって、真喜子との間に幸せを紡ぐことはできなかった。どんなに言い訳をしたって、俺が子供を捨てた事実に変わりはない。俺は自分を責め苛んだ。俺の心の中は敗北感で満たされていた。真喜子と理解し合えなかったこと、龍太との別れ、それらは皆、敗北感だった。
「すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい」
金子みすずの「わたしと小鳥とすずと」に出会ったのは、ちょうどその頃だった。偶然につけたカーラジオから聞こえてきたのだ。
1度聴いた詩をさらりと暗記できる能力は俺にはなかったけれど、「わたしと小鳥とすずはみんな違うけれど、みんないいよね!」そんな風なメッセージだけは俺の心に響いた。
俺は思わず路肩に車を停めて、呆然としてしまった。「違いを認めて理解し合う、理解し合って互いの良さを見付け合う」それは真喜子との生活の中で俺ができなかったことだし、これからを生きる指針にできそうに思えた。
涙で霞むフロントガラスの向こう側にうっすらとした希望の光が見えるような気がして、俺はアクセルを踏み込んだ。
「おれとおまえ、ぜんぜんちがう。だけど、すき。だから、ともだち」
犬と男の子も互いの違いを認め合い、友達として暮らしている。この一文に惹かれたのは、「すずと、小鳥と、それからわたしみんなちがって、みんないい」と同じメッセージを俺に伝えたからなのだろう。
誠太の観ているDVDはエンディングテーマにさしかかっている。食い入るように画面を凝視しているところを見ると、俺が過去の記憶と戯れていた時間を、誠太も誠太なりに塗り潰していたのだろうと思えた。
本棚の隅っこの金子みすずの詩集を手に取り、犬の絵本と見比べてみる。金子の詩集と出会ってから、俺は徐々に、着実に、幸せに近づけたような気がする。意識しなくても、努力しなくても、笑えるようになった。傲慢さや無謀とも少しずつ距離を置くようにもなった。
そして、大学で事務をしていた山木加奈子と出会い、誠太が生まれて6年経ち、「努力しなくたって幸せはそっと寄り添ってくれる!」、「泥沼を藻掻かなくても感じられる幸せこそが、本当の幸せなのだ!」、そう実感できるようになった。
「お腹空いたよ、パパ!」
DVDを見終えた誠太が俺をせかす。時計のデジタル表示は、誠太の空腹度合いと、俺が過去の感傷に浸っていたその深さを示しているようだった。
「よしっ!昼飯食べに行くか!」
寿司、パスタ、カレーライス、お好み焼き…、選択肢は沢山あったのだけれど、結局俺たちはマクドナルドからハンバーガーをテイクアウトすることにした。
冬に不似合いなくらいのぽかぽかした日差しが降り注ぐ公園のベンチで、俺たちはちょっと遅めの昼飯を食べた。
「パパ、ハワイも冬なの?」
「そうだなぁ、冬だけど…、とっても温かいんだ」
春になれば誠太も小学生だ。学校に行くようになる前に、誠太と2人で旅行に行こうと決めていた。行き先は妻と旅行したハワイが良い。そんな計画を誠太にも話してあったから、彼もハワイに興味を持ったのだろう。
「ハワイは温かいの?」
「そうだよ、誠太。パパはねぇ、ハワイの温かい公園でママと一緒にハンバーガー食べたんだよ」
そう言いながら俺は、妻との新婚旅行を思い出していた。
「じゃぁ、こんどは誠太とパパでハワイの公園行くんだね?」
「そうだよ、公園にも動物園にも…、海にも行こう!海で水遊びしような!」
「海に?冬なのに?」
誠太は目をまん丸にしている。冬と水遊びが結びつかなくて、不思議でならないようだ。
「ハワイの冬はねぇ…」
そう言いかけた時、携帯が鳴った。
いつでも何処でも連絡が取れるこの通信機器は本当に便利だ。今では会話ができるだけでなく、メールだとか、ネットで調べ物までできてしまう。便利な反面、携帯は俺たちを束縛する。何処に居ても、どんな状況だったとしても、それとは無関係の用件を突きつけてくるからだ。今もそうだ、息子との休日を楽しんでいる俺に、何らかの用件を突きつけようとしている。
俺は忌々しいその通信機器に目を落とした。ディスプレーは相川武弘からの着信を知らせている。
「パパ電話電話!」
「ああ、分かってるって…」
気乗りのしない相手だったから無視を決め込むつもりでいたのだけれど、誠太にせかされてのろのろと通話ボタンを押す。
「はい…」
「小谷、今何処だ?」
せっかちな声が受話口から流れて来る。
「ああ、息子と公園だよ」
「…無駄にどでかいモニュメントのある公園か?ちょうど良かった。今からそっちへ行く。そうだなぁ、10分もあれば着けると思うが…」
そこで待ってろ!っと言わんばかりの俺様口調にうんざりする。
「何か話しでもあるのか?今言えよ」
「とにかく会ってから話す。煙草1本分くらいの時間で済む。手間は取らせんよ。じゃぁ…」
そう言い残すと受話口は、つーつーと溜息を漏らした。
相川武弘は大学の頃からの友達だ。学生の頃は倫理学だの哲学だのを肴に議論しながら徹夜で飲んだものだ。
村上幸之助の倫理学研究室に残ると言う道を互いに選択したのだけれど、相川と俺とは相容れない考え方と言うか目的でそこに居た。
俺は純粋に倫理学を探究したかった。偽善者ぶるとか、格好の良いことを言いたくてそうしていたのではなく、幼い頃からの「命」だとか「生きることの意味」への好奇心が冷めないままでいたから、そうしただけだ。
相川はと言うと、「教授の椅子に座らんのなら大学に残る意味なんてない!」と誰憚ることなく言ってのけるような奴だ。この言葉だけ取り出してみても、彼はなかなかの野心家だと言える。
互いに相容れない俺と相川だったが、犬猿の仲と言うのでもなかった。俺は相川の頭の切れの良さを高く買っていたし、相川も俺が書いた論文を読んで「俺には真似できんよ!」と感嘆したことも度々あった。ただ、俺にしてみれば、自分の野心のためなら場合によっては他人を貶めることも辞さないと言う風な相川の一側面もしっていたから、程良く距離を取ってつき合っている、と言ったところだ。
「誠太、パパはこれからちょっと仕事の話があるから…、1人で遊んでてくれるか?」
相川はどんな難解な話を持ち込んで来るかも知れない。複雑な大人の話は誠太には雑音にすぎない。大人になれば嫌でも難解な人生を歩む必要だってある。子供のうちは、純粋で無邪気なままで良いのだから…。
相川が来たのは、誠太を遊具のある方へ送り出して程ない頃だった。
「よっ!」
そう言いながら、相川は缶コーヒーを投げてよこした。
「おっ、サンキュ」
「小谷先生に改めてお願いがありましてねぇ…」
「どうした?」と俺が尋ねるのを待たずに、相川はそう切り出した。彼がこんな風な慇懃無礼な口調で話す時は、たいていがろくでもない話だ。
「おまえさんの好きな倫理学の研究素材のことだ」
「研究素材?」
相川は煙草に火をつけた。俺もそれに応じて胸ポケットをまさぐる。
「おまえさん、「現代人の自由主義と倫理観の変容」って研究してるんだろ?俺の知人に、おまえさんの研究素材にぴったりの女が居てな…」
そう言われて、嫌な感じがした。俺は確かに「現代人の自由主義と倫理観の変容」って研究をしている。時代が移り変わるのと同様に人の倫理観も変わっている。倫理学の古書をまさぐるだけでは現代の倫理観を知り、吟味考察することなんてできない。だから、現代人の実像を知る意味で、いろんな世代の人と会話するように心がけていた。その場所は時に喫茶店だったり、時に研究室だったりしたけれど、俺はいつでも会話の相手を、俺の研究の協力者として見ていた。だから、相川が「研究素材」だとか、「女」なんて口にするのを聞いて不快な感じがしたのだ。
「パラサイトシングルとニートのダブルコンボみたいな女でな…」
言いながら相川は俺の隣に腰を下ろした
「それを直して欲しいってんなら、専門外だが…」
「直せ、なんて言わんよ。おまえさん風に言うと、「より良き人生への気付き」ってやつさ。おまえさんと話すことで、その女がだなぁ…、生きがいみたいなやつに辿りつけるんじゃないか?って思ってな。おまえさんはおまえさんで、彼女の考えてることを研究に生かせば良いってわけだ。悪い話ではなかろう?」
俺たちのすぐ側をサッカーボールが転がって行った。男の子がそれを追う。
「おまえの知り合いなんだろ?それならおまえがその女性にいろいろ話してやれば良いじゃないか?」
相川は、さもじれったいと言う風に、がしがしと頭を掻いた。
「パラサイトシングルとニートなんぞ相手にしても、俺の手柄にはならんよ」
そう言いながら相川は吸っていた煙草をぽいと投げ捨て、踵で踏み消した。踏みつけられた吸殻が、彼の心を表しているように思えた。
「とにかくだ、明日の午後…そうだなぁ、3時に行かせるから、体空けといてくれ」
そう言い残すと、相川はベンチから立ち上がり、去って行った。俺の隣に置き去りにされた紅茶の空き缶が、相川が今までそこに居たことを示していた。
「すみません。遅れちゃって…」
そう言いながら彼女が俺の研究室に入って来たのは、約束の時刻3時を10分くらい過ぎた頃だった。
「お母さんと買い物してたらついつい長くなってしまって…」
小柄で端正な顔立ち、誰が見ても標準より少し上に評価するくらいの美貌の持ち主の彼女は、俺にしてみれば意外だった。オタクと言えばデブ、プロレスラーと言えばマッチョ…、そんなステレオタイプのイメージと同じように、相川から、「パラサイトシングルとニートのダブルコンボみたいな女だ」と聞かされた時から、勝手な像を思い描いていたからだろう。
「まぁとりあえず、おかけください」
俺は彼女に椅子を勧めた。彼女と向かい合った瞬間、「ぴぴぴぴっ、ぴぴぴぴっ」と丸みを帯びた電子音が心の隅っこで聞こえた。それは、ほんの微かな音だったから、さほど気にはならなかった。隣の部屋の時計のアラームか何かだろうと思えるほどに…。
「初めまして、私は小谷です。倫理学を研究しています。貴方が日頃どんな風なお考えで生活しておられるか…、まぁ、そんなことをお話いただいて、現代の倫理観を研究する手がかりにしようと考えています。どうぞご協力ください」
俺はいつものようにそう言いながら、簡単なアンケート用紙を彼女に差し出す。用紙には、年齢、性別、職業のような基本情報を記入してもらう欄と、「倫理学と言う言葉から何を連想しますか?」とか、「貴方は今自由だと思いますか?」とか、「日本は良い国だと思いますか?」といった調査対象者の考え方を概観するための回答欄がある。
彼女は、俺が手渡した用紙にさらさらとペンを走らせる。
「あっ、お名前の欄は記入いただかなくてもけっこうですよ。その他の項目も、書きたくない欄はお書きいただかなくて良いですよ」
俺は微笑んで見せた。今から俺が彼女としようとしていることは、尋問や取調べではない。あくまでも会話だ。だから答えたくないことを強制的に引き出す必要はなかった。会話する中から、相手の考え方や心の中を知るためには、相手との円滑な関係が必要だ。相手に緊張を与えたり、不信感を持たせては、何も知ることはできないだろうし、こちらから何を伝えても相手の心には響かないだろう。
「さぁ、分かりません」
俺は彼女にいくつかの質問を投げかけてみたけれど、たいていの答えはこんな風だった。
「簡単で良いですから、貴方の人生観みたいなものを聞かせてください」と聞こうが、「生きがい…、そうですねぇ…、例えば趣味とか、日頃楽しみにしていることはありますか?」と聞こうが、彼女の答えは、「さぁ、分かりません」だった。
俺はいささか狼狽してしまった。「この人は何も考えずに、何も感じずに、日々を過ごしているのか?はたして、何も考えないことなんてできるんだろうか?」全く理解ができないでいた。倫理学だとか、哲学だとか、道徳だとか、そんな小難しいことを考えられない、いや、意図的に考えないようにしていたとしてもだ、毎日を生きる中で、人は何らかの思考をしているはずだ。だとしたら、俺の目の前に居る女性は何なんだ?毎日が空虚で、ただただ時が流れるに任せて、人生を漂ってきたと言うのか?
「では、ちょっと質問を変えてみましょうか。貴方の家族について、何かお話いただけますか?」
「お父さんとお母さんとお姉ちゃんが居て…」
「そうですか、ご両親とお姉様ですかぁ。…あっ、続けてください」
彼女の話を促す。それにしても、発言が未熟すぎる。俺なら「両親と姉が居ます」って答えるはずだ。小学生じゃあるまいし、「お父さん、お母さん、お姉ちゃん」ってのは、聞いているこちらが顔を赤くしてしまいそうだった。初対面の相手との接し方に問題があること、これがパラサイトシングルやニートの特質だとすれば、俺の心の中に偏見の種が1つ増えてしまいそうな気がした。
「冬になるとやっぱし寒いでしょ?だから…、お父さんもお母さんも私も、布団の中に居る時間がどうしても長くなっちゃうんです。お姉ちゃんはずいぶん前に家を出ちゃって…、結婚したり離婚したり…、馬鹿みたいでしょ?お父さんとお母さんの側はとっても温かいのに…。外に出たって温かさなんてどこにもないのに…」
俺が家族のことに話題を向けると、彼女は目を輝かせて話続けた。さっきまで「さぁ、分かりません」って言っていた人とは別人みたいなしゃべりっぷりだ。
「お父さんもお母さんもねぇ、家とか買うのってもったいないって言うんです。私もお父さんやお母さんが言うんだったら…そうなのかなぁって…。都営住宅すっごく安いんですよ。収入が増えちゃうと住めなくなるから、うちの家族はそこら辺に気を付けてるんですよ。さっきいただいたアンケートにも書きましたけど、日本って良い国だと思うんですよねぇ。あくせく働かなくたって生活保護制度もありますし、食べ物だって毎日特売やってるじゃないですか。贅沢言わなければ、十分暮らして行ける国ですよねぇ!」
彼女の話すことは、どれもこれもが、俺が知る限りの、体験した限りの実社会とは隔絶されたものだった。思いつくままに、しかも誇らしげに、俺からすれば異常とも言える家族のことを話し続けている。嬉嬉として話すその様は、真夜中にTVで流れている「ジャパネットたかた」の番組を想像させた。「なんと!このカーナビが100,000円を切った価格でご提供!です。分割金利手数料はジャパネットが負担します!」みたいな、なまりの強い高田社長の独特の声が聞こえてきそうだ。
やっとのことで彼女の言葉の隙間を見つけた俺は、人が生まれて来ることには意味があること、生まれた個人には生き生きした人生を過ごす権利やチャンスがあること、人はいつからだって変わろうと思えば変われるのだと言うことなんかを話してみた。
「貴方の人生は貴方の物です!決してご両親の物でもなければ、お姉様の物でもありません。貴方らしく…生き生きとですねぇ…」
俯いたまま俺の話を聞いていた彼女が顔を上げる。
「わたしが両手を広げても…」
「…?」
「何を言っているんだ?」最初彼女が何を言い出したのか?俺には理解できなかった。
「お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥はわたしのように
地べたを早くは走れない」
「なんだ、彼女も俺と同じ詩がすきなのか?この希望に満ち満ちた詩を好きだと言うことは、彼女も前向きに生きていけるはずじゃないか!」俺はほっとしていた。
「わたしが体をゆすっても
きれいな音は出ないけど
あの鳴る鈴はわたしのように
たくさんな歌は知らないよ」
言いながら彼女はのろのろと立ち上がった。
「鈴と小鳥と それからわたし
みんな違って みんないい」
俺を見下ろす彼女の目が鈍く不気味に光る。
「みんな違って みんないい…、そうですよねぇ?小谷さん…。人それぞれでしょ?生き方なんて…。人それぞれで良いんですよね?」
彼女の瞳は何かに取り付かれたように空ろだ。
俺は心の中で彼女と一緒に詩を暗誦していた自分を、そののんきさを後悔した。
「貴方はどうしてそうなの?自分の生き方を…、前向きに生きることを…、押し付けるの?!」
彼女の声のトーンは高まり、もはや金切り声になっている。
「お姉ちゃんと一緒に暮らしてた時もそうだったでしょ?」
そう言われて「まさかな?」と思う。真喜子に妹が居るとは聞かされていたけれど、駆け落ちみたいに結婚したから、妹はおろか、真喜子の家族とは一面識もなかった。つつっと背中に嫌な汗が伝う。
「まっ、前向きとか、ポジティブとかが…、ぜったいに良いなんて誰が決めたの?結局貴方はお姉ちゃんを捨てたでしょ?」
机の上のアンケートに目を走らす。そこには確かにあった。盛岡亮子、と。
「野良猫を拾ってきて、1度は飼ってみたけど…、結局捨てた。それと同じことよ!無責任だわ、貴方は!っま、それも別に良いんですけどねぇ。人それぞれ…、みんな違って みんないい…そうでしょ?ふふっ、ふふふふふふっ!」
不気味に高らかに笑いながら、亮子がにじり寄る。
声を出そうとしても喉がからからで声にならない。
心臓がばくばくと早鐘を打つ。
「動けない!動けない!」、俺の頭の中は真空のようで、全ての思考が凍り付いている。
早鐘を打つ俺の心臓に、亮子の手の中で鈍く光る熱い鉄がぶち込まれた。
俺の胸に骨ばった重みがのしかかる。
俺の腹に馬乗りになって、胸を、喉を亮子が貫く。その口からは、狂ったうわ言のように「わたしと小鳥とすずと」が繰り返されている。
何かを得ると言うことは、何かを失うと言うことと表裏一体だと言える。真喜子との生活を失ったその代わりに、俺は「わたしと小鳥とすずと」と出会えた。一編の素敵な詩は、俺に生きる力を与え俺に幸せをもたらした。本当に本当に愛しい幸せを手に入れた代わりに傲慢や無謀と手を切ることができた。傲慢や無謀を手放したと同時に、俺は若い頃の勢いや俊敏さをすっかり失ってしまっていた。真喜子と出会った瞬間に「ぴぴぴぴっ!ぴぴぴぴっ!」と鋭く発せられていた心の警告音は、幸せを手にした今、「ぴぴぴぴっ、ぴぴぴぴ」と言うまろやかな小さな音に変化してしまっていた。
細く開いたブラインドの羽の隙間から、冬の夕日が差し込んで、生臭い俺の血と混ざり合う。
もう痛みも感じない。
俺は薄れ行く意識の中で、ハワイを思い浮かべた。妻との幸せだったハワイを、誠太と行くはずだったハワイを…。
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