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Gentaの駄文集 2007 / 06
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The runner's philosophy(ランナーの哲学)
2007/06/17
 もしも生まれた時に人それぞれに「宿命」ってやつが定められているとしたら、俺の宿命は「走ること」なのかもしれない。
何故なら、生まれてこのかた、俺の記憶の大半は「走る」と言う行為で埋め尽くされていたからだ。毎日、毎日、俺は走った。「何故俺は走るのか?」「走ることに何の意味があるのか?」そんな小さな疑問を差し挟む余地などない。ただただ俺は走るのだ。腹の底から太くて低い唸りが沸き上がる度に、俺は半ば強制的に走らされるのだ。
どこに向かって走るのか?どんな道を走るのか?それさえ分からないままに、俺は走り続ける。「次の角を左よ」「次の角は右に曲がって」心のどこかから、淡々とした女の声が発せられる。感情の欠片も感じられない冷たく、それでいて、柔らかな響きの女の声に従って、俺は走る方角を定める。
 俺の走る場所は、時にはどこまでも長く延びるアスファルトの道だったり、曲がりくねった狭い田舎道だったりした。雪の降り積もる日には、雪に足を取られないように、足下の装いを変えて走った。雨の日は酷いもんだった。傘も差さずに走らされるもんだから、雨粒が体中にまとわりついた。そんな日は、視界を確保するために、俺は顔の前でせわしなく、右に左に手を動かして雨粒を払った。そんなことをしたって、まとわりつく雨が止むわけでもなかったのだけれど、ほんの少しの気休めにはなった。
 そんな俺には、歴史なんかなかった。日記も記念写真も何も残されてはいない。唯一俺の瞼の裏に刻まれている過ぎ行く景色たちだけが、俺が生きている証だった。
 走り疲れて俺が身を横たえるのは、たいていの場合は油臭い無機質なコンクリートの地
下室だった。静寂だけが満ち満ちた室内には俺と同じように走り疲れた奴らが眠っている。静寂のなかで、俺は考える。走り続けることの意味を、そうしている俺の存在の意味を。少し湿った地下室で自分の人生について考えたって、明確な答えは得られない。それどころか、ずんずんと気が重くなる。「俺はこのままで良いのか?」「何者かに支配されるがままに走り続けるだけで本当に良いのだろうか?」そんな疑問が俺の胸を重たくした。訳もなく、形にならない苛立ちが、俺の心を苛む。累々と積み重なる疑問たち、苛立ち、それらの重みに耐えかねて、俺の心は悲鳴を上げる。そして、決まってやけっぱちな気持ちになった。「どうせ何を考えたって、何者かに支配され続ける、そうして走り続ける俺に変わりはないんだ!」「考え、悩むからこんなにも苦しいんだ!」「いっそのこと、支配され続けて、走り続けるに身を任せてやれ!」「そうやって日々を塗り潰すのも楽で良い!」と。人生の意味を掴み取れないまま、俺は毎日眠りに落ちた。悶々と揺らぐ心を抱えたまま、微睡みに落ちて行く。
「他の奴らも俺と同じようなことを考えているんだろうか…?」
 そして、朝が訪れる。腹の底から太くて低い唸りが沸き上がると、俺は身震いしながら走り出す。地下室ではあんなに自分が走ることの意味や、そうしている自分自身の存在について、深く考えていたのに、結局俺は、また走る。何処からともなく発せられる女の声に従って、その声に支配されていることを、納得しているかのように、俺は淡々と走る。そんな毎日にうんざりしている俺と、平凡な毎日を受け入れようと、その状況に安心しようとしている俺と、そんな2つの俺が同居していた。

 ただただ走るだけの毎日だけど、そんな俺にもささやかな楽しみがある。
時々野山で眠れる日がある。いつもはコンクリートの地下室の蛍光灯に照らされながら眠るのだけれど、野山で眠る時は星空を満喫できた。満天の星空の下で眠るのは、やっぱり格別だ。そんな日は、星空を見上げながら、新鮮な空気を深呼吸して、ついつい宇宙について考えてしまったりする。地球と言う星の、日本と言うちっぽけな島国の、神戸と言う名の小さな地面をはいずり回っている俺が、宇宙を思うなんて、全く滑稽だし、全く自分に似合わないって思う。けれど、星の光に包まれていると、「宇宙はどこまで広がっているんだろう?」「輝く星たちにも命があるのか?」「何も言わずに輝いてるあの星たちは、刻々と動き、その様を変えている。毎日走ってばかりの俺もあの星たちのように変化してるのか?」なんて、遠い宇宙に思いをはせたくなる。きっと俺がどんなに努力しても、きらめく星たちには手が届かない。それが分かってるから、俺は宇宙の神秘に思いをはせてしまうのだろう。満天の星の下で、宇宙に思いをはせること、これが俺の1つ目のささやかな楽しみだ。
 俺には気になる奴が居る。黒い肌のそいつは、俺と同じように毎日毎日走っているのだけれど、俺より体が大きいくせに、俺より足は速かった。生まれてこのかた走り続けてきた俺だ、走りで負けてしまうのは悔しかったけど、奴と会えることは変化のない毎日を過ごさなければならない俺にとって、2つ目のささやかな楽しみになっていた。
 名前も知らない黒い奴に、俺は「ブラック」と名前を付けた。ブラックを見付けると、俺は追い抜いてやろうと頑張ってみるけれど、いつもそれはかなわなかった。
 ある日俺は交差点でブラックと並ぶことができた。
「おまえ、走るの早いよなぁ!どうしてそんなに早いんだい?」
息を切らせながら、尋ねてみた。
「そんなの俺にも分からんよ。」
涼しげにブラックは答える。
「テクニックがあるなら教えてくれよ!」
「そんなもん、あるものか。ただ、言えることは、心のどこかが「急げ!急げ!」って言ってるってことだけさ」
そう答えるとブラックは寂しげな笑みを俺に向けて、走り始めた。隣に並んで同時に走り始めたはずなのに、ブラックの足は速かった。すぐに引き離されていく。
 それから、俺とブラックは度々交差点で話しをするようになった。ブラックは俺と会う度に、珍しい話しを聞かせてくれた。俺はせいぜい大阪くらいまでの土地のことしか知らないのに、ブラックはよほど遠くに旅をしているらしく、東京だとか横浜だとか、北海道だとか熊本だとか、俺が聞いたこともない土地の話をしてくれた。彼の旅行話を聞くことは、俺の3つ目の楽しみになった。
 星空を見上げながら宇宙に思いをはせること、ブラックと走りを競い合うこと、彼の旅行の話を聞くこと、どれもこれも本当に小さな、本当にささやかなことだったけれど、俺にとってはどれもこれもが本当に楽しくて、大切な宝物だった。3つの楽しい大切な宝物に触れている時、俺は唯一自分らしい存在になれたような気がしていた。何者かに命ぜられるままに、地面を蹴り続ける、ただただ走り続ける、そんな俺の宿命から、解放されたような気がしたんだ。

 ある時、俺は夢を見た。満天の星空の下で夢を見た。
いつものようにブラックと競走する夢だ。俺はブラックの後ろ姿を追いかけた。いくつもいくつも交差点があって、ブラックはそこで停まるのだけれど、もう少しのところで俺は彼に並ぶことができない。追いすがっては離され、離されては追いすがる。その繰り返しだ。
「おい!待ってくれよ!」
俺はぜいぜいと息をつきながら叫んだ。
「待てんよ。「急げ!急げ!」って言われてるからね」

 不思議な夢から覚めた俺は、また走った。心のどこかに命ぜられるままに。そして、見付けた。ブラックの後ろ姿を。
「大好きな星空の下で眠った翌日に、ブラックに会えるなんて!」
俺はなんて幸運なんだろう。俺はとても嬉しかった。俺はいつものように彼を追った。
「追いつけないことなんてあるものか!夢の中ではできなかったけど、いつもみたいにうまくやってやるんだ!次の交差点で並んでやる!」
ブラックは疲れているみたいだった。彼の後ろ姿は右に左にくねくねと揺らいでいる。彼が疲れているせいで、いつもはやっと追いつける俺が、楽々と彼の隣に並ぶことができたくらいだった。
「疲れてるのかい?」
俺は、そう聞いてみた。
「ありがとう!心配はいらんよ。「こんな風に走れ!」って言われてるから、そうしているだけさ」
俺は何故かとても嫌な気がした。彼の物言いが俺を不愉快にさせたのではないけれど、とにかく嫌な気持ちになった。
「いいか!おまえさんは、おまえさんなりの走り方で、おまえさんの道を行けよ!」
そう言うと、ブラックはふらふらと走り出した。
俺は彼を追いかけた。追い抜きたくてそうしたんじゃない!足取りのおぼつかないブラックのことが心配だったんだ。よろよろ走る彼の後ろを、俺は少しの距離を開けて追走した。胸の奥がぐるぐるする。胸騒ぎって感覚を知らなかった俺は、いささか戸惑った。「疲れているなら無理せずに、休めば良いのに…」そう思った。できることなら、もう一度ブラックの側に並んで、「休みなよ!」って言いたかった。だけど、俺の心のどこかから発せられる命令は、それを許さなかった。ブラックの側に寄ることを許さないばかりか「彼と距離を置くように!できるだけ彼と離れるように!」って強く強く命令する。
「あっ!」
俺は心の中で叫んだ。俺が叫ぶのと同時にブラックは、大きく右に道を逸れ、路肩の電柱に吸い寄せられた。まるで互いに引き合うように…、まるでブラックが自分の意思でそうしたかのように…。
 ブラックの頭が割れた。彼の肉片が路面に散らばる。その後のことはよく憶えてはいない。オレンジ色に染められた地面が見えたような気がする。そんな記憶がうっすらと残っているだけだ。

 気が付くと、俺はいつもの地下室に居た。ばくばくと心臓が波打っている。大きく深呼吸してみたりして、波打つ鼓動を抑えようとしたけれど、油臭い湿った空気が、腹に、胸に溜まるだけだった。
「今さっき見た光景は何だったんだ?」「あんな一瞬で命が消えてしまうのか?」「たった今まで一緒に走って、しゃべってたブラックの命が、あんなに簡単に消えてしまうのか?」俺は夢でも見ているのかと、自分を疑ってみた。あれこれと自分を疑ってはみたけれど、結局「あれが「死」と言うものなんだ」と納得するしかなさそうだった。
 油臭いこの部屋の静寂は、もともと好きではなかったけれど、ブラックが居なくなってしまった今、もっともっとこの部屋が嫌いになってしまった。
ブラックが居た時と、居なくなってしまった今とでは、俺にとってこの部屋の静寂の意味がくっきりと違ってしまっていた。ブラックが居た頃は、この部屋の静寂は、自分自身が走り続けていることの意味を、そうしている自分の存在の意味を、ただそれだけを、悶々と考えるためだけにあった。どんなに悶々と考え事をしていても、眠りは訪れ、そして朝になれば、また走り出しさえすれば、ブラックに会えるかもしれなかった。そんな明るい希望が持てた。希望に繋がる静寂だった。ブラックが居なくなってしまった今、この部屋の静寂は、俺の寂しさを深めるためにだけあるような気がする。
「ああ、静寂はなんて寂しいんだろう!」
たとえこのまま眠りに落ちて、そして朝が訪れて、また走り出したとしても、もう二度とブラックには会えないんだ。後姿を追いかけて、競走する相手は居ないんだ。俺の知らない土地のことを、教えてくれる奴はいないんだ。そんな絶望しか見えなかった。絶望に繋がる静寂なのだ。
 それからもやっぱり、俺は走った。ブラックが居ない寂しさを抱えて、あちこちの道をとにかく走った。「がむしゃらに走ったら、悲しさがなくなるかな?」ってちょっぴり思ってみたけれど、悲しさはちっともなくならなかった。胸の奥にぽっかりと開いた穴は、ふさがりそうにはなかった。
 夜になって、静寂の霧が降りても、俺はブラックのことを考えた。「何のために彼は生きていたんだろう?」「あんなに早く走れても、どんなに遠くに行けたとしても、死んじゃったらぜんぶおしまいなのか?」「「急げ!急げ!」って誰かに命ぜられているから急いで走って、急いで死んじゃったんだろうか?」、俺はいろいろ考えてみた。考えても、考えても、ちっぽけな俺には何も分からなかった。神戸とか、大阪ってな土地のことしか知らない俺には、走ることしか知らない俺には、ブラックが生きてたことの意味も、彼の死の意味も、全く、さっぱり分からなかった。
 そんな毎日を繰り返しているうちに、「ああ!俺もいつかは死ぬのかな?」って、時々思うようになった。そして、時々は度々になり、度々は毎日になった。道路を走らされている時も、いつ死が訪れるかと心を痛めた。曲がりくねった田舎道を走らされてる時なんかは、どこかにぶつかって死ぬんじゃないか?って、冷や冷やした。俺は死ぬことが怖かった。本当に!怖かったんだ。

 俺は久しぶりに、星空の下で眠った。あんなに大好きだった満天の星空にも、ちっとも魅力を感じない。頬をなでる風、草木の香り、それらを胸一杯に吸い込んでみるのだけれど、ひゅうひゅうと音を立てて素通りしてしまうだけだった。例えば、掬い上げた細かな砂が指の間からぱらぱらと零れ落ちてしまうのと同じように、俺の心に開いた風穴を、全ての物が通り抜けてしまうような気がしていた。
俺はまた心配になった。「俺はここで今死ぬんじゃないか?」と。元気な人はきっと言うだろう。「心配のしすぎだよ!」って。俺は星空を見上げてみる。「空が落っこちて来て、俺を押しつぶしはしないか?」と。健康な人はきっと言うだろう。「そんなことはありっこないじゃないか!」って。 だけど、俺の心は、すっかり弱りきっていた。弱りきった俺の心は、そこここに散らばっているネガティブを、すっかり吸い尽くしてしまっている。じっとりとしたネガティブを含んだ鉛色の俺の心は、元気とか、健康とは正反対の場所を漂っていた。

 どれくらいの時間、空を見上げていただろう。眩い星空は落っこちて来るどころか、俺
を、弱りきった俺の心を、優しく包み込んでくれていた。
「いいか!おまえさんは、おまえさんなりの走り方で、おまえさんの道を行けよ!」
柔らかな星の光に包まれながら、俺は懐かしい気持ちでブラックの声を聴いた。それは天からの啓示のようだった。幻想的な星の光の粒たちと一緒に、俺の心の虚しい空洞を埋める部品が降ってきた。俺の肌はぞわぞわと泡立ち、歓喜と興奮で体がふるえた。
「俺は死ぬことが怖かったわけじゃない!自分らしさを探さずに、このままで死ぬことが怖かったんだ!誰かに支配されるがままに、走り続けて生涯を終える、本当はそのことが、怖かっただけなんだ!」
そんな気付きが俺の心の中を満たす。それは、天から舞い降りて来たような気付きだった。 気付きの塊は激しい熱を湛えて、俺の心を、俺の細胞1つ1つを震わせる。
「そうだ!俺は宇宙の一部なんだ!地球と言う星の、日本と言うちっぽけな島国の、神戸と言う名の小さな地面をはいずり回っている俺だって、宇宙の一部として、確かに、ちゃんと生きているんだ」
びりびりとした心の震えは、細胞の震えは、そんな風な新たな気付きを生み出す。俺の体内に宇宙が入り込み、そして膨張を始める。俺の中で膨らみ続ける、蒸せかえるようなエネルギーの固まりは、それは、生命力だった。「開眼」だとか、「悟り」って言葉がぴったりくるような、そんな神秘的なひと時だった。嘘みたいな出来事で、にわかに信じられそうもなかったけれど、俺の心の虚しい空洞はきっちりと堅くふさがれて、もう二度と揺らぎそうには思えないほどだった。
 虫の声、風のさざめき、木々の葉が触れ合う音、耳を澄ませば細かな音の粒たちが何かを語りかけて来る。目を凝らしたら、どこまでも、どんな遠くまでも見通せそうな、そんな気がした。手を伸ばしたら、あの星さえも掴めそうな気がした。たった今、この星空の下で、俺は生まれ変われたような気がして、心の中で叫んでいた。
「俺は自分らしさを探すんだ!俺を支配する誰かの意のままに、走り続けるのはもう嫌だ!」
 ゆっくりと、静かに、夜が明けて行く。朝日が昇るのを見るのは初めてではなかったけれど、今日の朝日は今までに見たそれとは全く別物のように映った、
 別物のように映ったのは、朝日だけじゃなかった。太い枝を大きく空に広げて堂々と立っている木々、大地を包むように柔らかく芽吹いている草花、せせらぐ川、そこに跳ねる魚たち、それら全てが新鮮な物として俺の心に映る。
「見方によって、こんなにも世界は変わるのか?そうか!そうか!世界の色を決めるのは俺自身なんだ!自分次第で世界はどうとでも変わるんだ!」
昨日までの俺は無色の世界をただただ虚しく走らされていたけれど、今日からは、生命力に満ち満ちた素敵な世界を感じることができる。そう思うだけで、俺はとても嬉しかった。すがすがしささえ感じていた。

 奴は今日もやってきた。俺の心の一部を支配している奴だ。
「くそっ!また今日も俺を走らせる気だなっ!」
俺は心の中でそんな悪態をついた。
「昨日までとは違うんだ!俺はおまえの意のままに走るのは嫌なんだ!」
俺は、自分にできる限りの抵抗をしようと決め込んだ。
 足を大地に踏ん張って、体にもぐっと力を込めた。俺を支配する奴は、「走れ!走れ!」と命じてきた。俺の頭の中は、「きゅんきゅんきゅんきゅん!きゅんきゅんきゅんきゅん!」と悲しげに嘶いた。俺がいつものように動かないことに、奴は戸惑っている。そりゃそうだろう。俺が自分の意思で貴方に抵抗したのは、今日が初めてなんだから。
 動かない俺を認めて、あっさり引き下がるだろうと思っていたけれど、奴もなかなか粘り強かった。そして、ずいぶん長い時間俺と奴は格闘した。
 結局…、俺は負けてしまった。いつものように、腹の底から太くて低い唸りが沸き上がり、俺の体は小刻みに震えた。
やがて足は大地を蹴って、俺は走り始めた。けれども俺は嫌ではなかった。走り出すまでのプロセスに、俺の意思が介在していたからだ。俺を支配する奴の命令に、「走れ!走れ!」と発せられる言葉に、精一杯の力で、渾身の力で、抗うことができたから…。

 走り始めると俺は、目に見えた抵抗をしなかった。「右に曲がれ!」って言われてるのに、そこを左に曲がったりしたら、「左に曲がれ!」って言われてるのに、そこを直進してしまったりしたら、俺の命がなくなるかもしれなかったから。自分から命を失うかもしれないような抵抗をしてしまったのでは、自分らしさを探すもへったくれもなくなってしまう。
 目に見えた抵抗ができない代わりに、走り続けている間俺は、頭の中で抵抗した。昨日の夜の神秘的な体験のこと、俺も宇宙の生命と一体なのだと気付けたこと、いろいろなことを考えることで、そうすることで、容易に奴に抵抗できた。「曲がれ!」とか、「停まれ!」とか、そんな風に言われた時だけ、ほんの少し命令を聞くために意識を引き戻せば良いだけなのだ。
 つまらないアスファルトの道を俺は走る。けれども、昨日までとは全く違う。過ぎ行く景色たち、店の看板、人工物であるはずの町中の全てにも、ごみごみした埃臭い都会の喧噪にさえ、生き生きとした生命力が確かに感じられた。今なら、油臭い無機質なコンクリートの地下室でさえも、愛せそうな気がする。

「テクニックがあるなら教えてくれよ!」
「そんなもん、あるものか。ただ、言えることは、心のどこかが「急げ!急げ!」って言ってるってことだけさ」
 交差点で初めてブラックと並んだ時の一コマが、ふと蘇る。あの時、ブラックは俺に寂しげな笑みを向けて、それから走り出した。
「そうか!」ブラックも俺と同じような気持ちで、毎日毎日走っていたんだ。俺は彼が早く走れることに憧れてたけれど、彼自身が望んでそうしたかったわけじゃなかったんだ。ひょっとしたら、周りの景色を楽しみながら、ゆっくり走りたかったのかもしれない。だから、最後のあの日…、「おまえさんは、おまえさんなりの走り方で、おまえさんの道を行けよ!」って俺に言ったんだ。俺は今まで、ブラックが死んでしまったことの意味だとか、彼が生きてた意味だとか、そんなことを考えてたけれど、もっともっと大切なことは、彼の死を受け止めた俺が、今からどんな風に生きてくか?ってことなんだ。

 俺はいろいろ考えながら、ずいぶん長いこと走っている。
「ああ、腹が減った!」
昨日までのように、ただただ走らされていた時よりも、自分の意思で奴に抗ってみたり、自分の考えをあれこれ組み立てながら走っている今の方が、腹の減りも激しいらしかった。
「くそっ!まだ走れ!って言い続ける気かよっ!」
何だか眩暈がする。意識も途切れそうだ。
俺の右の脇腹の辺りがもぞもぞする。ようやく「停まれ!」って言われて足を停めたけれど、再び走り出せる余力はなさそうだ。
「うぐっ!」
吐き気がこみ上げるのとは別の感覚がする。右の脇腹がこじ開けられるような感覚だ。やがて、脇腹をこじ開けて、俺を支配し続けた奴がぬーっと顔を出す。そして…、奴はこう言った。

「レギュラー!満タンね!」

 俺の腹にどぶどぶとつぎ込まれているオレンジ色の液体が「ガソリン」って名前だってことを知っているのと同じように、今の俺には知っていることが沢山ある。
 ブラックは死んだ。酔っぱらい運転で走らされて、呆気なく死んだ。それは知っているけれど、だからこそ生きてる俺は、自分らしさを掴んでみせる!
 貴方は俺を愛してくれる。貴方は安全運転だ。貴方は決して俺のことを、ブラックみたいに死なせはしない。それは知っているけれど、俺は貴方の温かさから、離れてみたいと思うんだ!

 春の日差しが柔らかく、俺の体に降り注ぐ。ガソリンが俺の腹を満杯にした。
 俺は車。運転手である貴方の意のままに、黙って走るちっぽけな車だ。それは知っているけれど、いつか貴方の支配を越えて、いつか貴方の意思を越え出て、独立した存在になってみせる!

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